
仏に捧げる少女の祈り
六畳一間くらいの静まり返った一室。廊下の外には日本的な庭園が広がっており、そこに小雪がちらついている様子が部屋から見える。
そんな一室に連れ込まれた私は、そこで座禅を始めることとなった。
紫色をした丸い座布団にお尻を乗せて、両足を組んで構えをつくる。
ちなみに、座禅のとき眼を閉じて行うイメージがあるが、住職さんに言わせるとじつはこれ、NG。そうしているとホントに眠ってしまうというのは理由であるそうな。
眼を半開きにして一〜二メートル先に視線をやるのが正しいやり方。
ひと通り説明を受けた後、とりあえず二十分ほど続けてみることに。
数分経過、私の脳内は早くも雑念で支配されかかっていた。
しかし住職さんも言っていた。「無に近づくほど雑念が入りやすくなる」と。
つまり、私が雑念に支配されかかっていることは
それだけ無の境地に近づいていることの証拠であり、何も恥ずべきことではない。決して心の鍛錬がなってないためではないのだから。
無の境地に近づいた私は、座禅の間、様々な雑念に捕らわれてしまっていた。
いつしか私は、隣で座禅をしている「明歩さん」について妄想を浮かべていた。
「吉○明歩って、確か脱いだらEカップだったと思うけど、こっちの明歩さんもやっぱりオッパイでかいのだろうか?
僧衣の下からは判断できないし、はてさて、何とか確認できないだろうか?」
......
何を妄想してるんだオレ!? 「淫らなことは決して考えません」とさっき誓ったばかりではないか!?
己の雑念を振りはらうため頭を左右に振る。
隣の明歩さんに
視線を移す。彼女は一心不乱に座禅に集中しており私の不審な挙動に気づいていない。
しかし、こうして見ると明歩さんの座禅姿は、私と違って型になっている。そして何より、真剣に取り組む姿勢が横から見ていても伝わってくる。
これだけまじめに修行に取り組むなんて、彼女はいったい、どれだけ悩みを抱えて今回の体験に参加したのだろうか?
私は己の疑問を、明歩さんへぶつけてみることにした。
「すいません、明歩さんって何カップっすか?」
「......(怒)」
○沢明歩ばりのドスのきいた視線で睨みつけられる。どうやらゴキゲンを損ねてしまったようだ(当たり前だ!)。話題を変えるため違う質問をしてみた。
「明歩さんって座禅の仕方がそれっぽいんですけど、ふだんどのような生活をしているんですか? お寺に関係のあるようなことをなされているのでしょうか」
それから明歩さんと話しているうち、次のようなことが分かった。
明歩さんは岐阜の片田舎で家族と共に暮らしているらしい。仏に関係する仕事はしていないが家庭には信心深い人が多く、大晦日などの行事で家族揃ってお経を詠んだりすることもあるという。
こうした環境で過ごしている彼女はおそらく、私のような東京に近いところで普通の生活をしている人間に比べて、仏の世界を身近な存在として捕らえることができるのであろう。
また、明歩さんはこれまでの人生で実家である岐阜の町を離れて過ごしたことがほとんどなく、現在もそこから出る機会がほとんどないらしい。
こうしたことを話しながら、明歩さんが今回なぜ修行に参加しようとしたのか、その動機を尋ねてみることにした。
「明歩さんは今回、どうして修行に参加しようと思ったんですか?」
「少し、心を落ち着けたいと思いまして」
「心を落ち着ける?」
「去年、精神的にいろいろ大変なことがあったんで、それで...」
それ以上、彼女は何も語らない。
明歩さんは自分のことを多く話さない。そして聞かれたことにまじめに答える。照れ隠しの笑顔を浮かべたり、軽口でその場を流したりしない。
若い女性には珍しいタイプだ。
明歩さんの「大変なこと」とはいったい何なのだろうか? 具体的な中身はひと言も口にはしない。しかし、その雰囲気から「大変なこと」というのが、彼女を悩ませるに十分なほど重い内容であることは理解できた。
彼女の「大変なこと」について相談に乗ってみようか? そうすればそれが縁で彼女と親しくなり、「仏に仕える清らかな女性と親密な関係になる」という当初の願望が達成できそうである。
「いったい何に困っているんだい? ボクでよければ力になるよ」
そんなありきたりの軽口が喉まで出かかったその時、私ははっと気づいた。
私のような見ず知らずの男に相談するくらいなら、もっと親しい他の男にとっくに相談しているはずである。
そして、そうすることで救いが得られたのであれば、こんな所に一人で修行なんかに来ないであろう。
そのとき私はそう思った。
明歩さんにとって救いが得られる存在、それは「男」ではなく「仏」である。彼女はそう信じているではないだろうか?
今まで聞いた彼女の話、それも併せてみるとこうした考えも納得ができる。
仏に救いを求める、一般の若い女性の感覚からすれば奇妙なことかもしれない。私だってそれが一般的とは思えない。
しかし、仮に彼女とまったく同じ環境でまったく同じ人生を歩んでくれば、私だって同じ考えを持つことだって有り得ない話ではないと思う。逆に「男」に救いを求める考えが奇妙なものと思うかもしれない。
片方の道を選べば必ず救われて、もう片方の道には救いがない。そんなことなどあろうはずがない。
どちらが正しくてどちらが間違っているかなんて、その答えは人それぞれである。
相田みつをの詩ではないが「しあわせはいつもじぶんのこころがきめる」のだ。誰にとっても当てはまる、普遍的な答えを導き出せることなんてできるはずがない。
そして
明歩さんの人生において、そのどちらが幸せかを選ぶ権利があるのは彼女自身である。私ではない。
また、彼女にとってどちらが救いの道であるか一番知っているのも、おそらく彼女自身であろう。
彼女を想うのなら、それを尊重したっていいのではないか?
それを、自分の価値観に従って親切を押しつけ彼女を助けた気になる、それは単なる私の自己満足ではないだろうか?
「仏に仕える清らかな女性と親密な関係になる」という願望を持っていた私であったが、そうしたことを思い敢えて手を出さずにおいた。こんな選択肢だってあってもよいのではと思う。
しかし、最近になって
メールアドレスと携帯くらい聞いとけばよかった
と激しく後悔している、今日この頃でありました。